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種類: Departmental Bulletin Paper
タイトル: 「遊び」と「遊ぶ」のあいだ:遊びの同定根拠への模索
タイトル別表記: Between "Play" and "Playing" -Exploring the Identifying Base of Play-
著者: 青木, 純一
キーワード: 観察者
他者
同定根拠
遊び
遊ぶ
play
playing
observer
indentifying base
others
掲載誌: 聖路加看護大学紀要
号: 21
開始ページ: 25
終了ページ: 33
発行年月日: 1995年3月1日
ISSN: 02892863
抄録:  これまでの遊び論の多くは、遊びを遊び手の視点からではなく観察者の視点から論じてきた。しかし人が遊んでいる姿を見て誰も「遊んでいる」と断定することはできない。なぜなら遊びとは、遊び手が遊びに没頭する意識によって初めてて同定できるものだからである。しかもその意識は人によって千差万別である。ところが遊び手が遊びに没頭し、自分が遊んでいるという自覚のないものも厳密に遊びとは言えない。 我々が遊びを同定するためには、遊び手のまさに遊ぶ意識と、今遊んでいるのだと反省する意識の両者を不可欠の要素とする。そして、これらの意識は遊び手の個体内に閉じて論じられるべきものではなく、遊び手と他者との連続的な交流によって、相互補完的な関係から論じられるべきものである。この意識の様態を描き出すことによって初めて遊び論は遊びの実像に近づくことができる。
抄録別表記: Up to the present, the majiority of theories regarding play were grounded on the perspective of the observer rather than the perspective of the person engaged in play.When viewing the figure of someone playing, however, no one can draw the conclusion that the person "is playing" This is because play can be identified solely by the awareness of the player absorbed in play.Nevertheless, this awareness varies infinitely according to the individual.Moreover, when the player is absorbed in play but is not conscious that s/he playing, strictly speaking, the activity cannot defined as play. To identify play, we regard both the player's playing awareness itself and the self-awareness of being engaged in play as indispensable elements.Furthermore, these two forms of awareness should be discussed, not by enclosing them within the player's individual mind, but from the standpoint of a relationship of mutual compensation through continuous interchange between the player and others.The theory of play can approach the real image of play only by extracting the modality of these forms of awareness.
参考文献: 関廣野「教育のニヒリズム」『現代思想』13巻12号, 青土社, 1985年。
大沢正道『遊戯と労働の弁証法』紀伊国屋書店,1994年。
浜田寿美男『「私」というもののなりたち』ミネルヴァ書房,1992年。
J.アンリオ,佐藤信夫訳『遊び』白水社,1990年,31-32頁
J.エリス,森楙(他)訳『人間はなぜ遊ぶか』黎明書房1985年
F.シラー,浜田正秀訳「人間の美的教育について」『美的教育』玉川大学出版,1984年,187頁。
J.ホイジンガ,高橋英夫訳『ホモ・ルーデンス』中公文庫1989年,16-21頁。
R.カイヨワ,清水幾太郎/霧生和夫訳『遊びと人間』岩波書店,1971年。
J.ピアジェ,谷村覚/浜田寿美男訳『知能の誕生』ミネルヴァ書房,1988年。
S.フロイト,井村恒郎/小此木啓伍訳「快感原則の彼岸」『フロイト著者集6』人文書院,1987年155-158頁。
青木純一「遊びはどこにあるか」『響鳴』4号,公教育研究会,1993年。
矢野智司「遊びの論理学」亀山佳明編『スポーツの社会学』世界思想社,1992年,170頁。
矢野智司「近代教育学における『遊び』と『作業』の意味づけを読む」『近代教育フォーラム』創刊号,近代教育思想史研究会,1992年,64頁。
矢野智司「合理主義と非合理主義の二項対立を超えて」『教育哲学研究』第63号,1991年。
西村清和『遊びの現象学』勁草書房,1989年,203-211頁。
鵜野祐介「『人間形成』における<nonsense>の意味に関する試論-『遊びを教育すること』の可能性をめぐってー」『教育哲学研究』第64号,1991年
西村章次『実践と発達の診断』ぶどう社,1979年,378頁。
G.ベイトソン,高橋和久/佐藤良明訳『精神の生態学(上)』思索社,1986年,265-284頁。
H.ワロン,浜田寿美男訳編『ワロン/身体・自我・社会』ミネルヴァ書房,1984年,149-182頁。
市川浩『精神としての身体』勁草書房,1991年,33頁。
浜田寿美男編著『「私」というもののなりたち』ミネルヴァ書房,1992年,67-102頁。
木村敏「時間の間主観性」『現代思想』21巻03号,1993年。
フロイト「自我とエス」『フロイト著作集6』人文書院,263-299頁。
別役実『ベケットといじめ』岩波書店,1988年,26頁。
リンクURL: http://hdl.handle.net/10285/297
出現コレクション:21号

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